やすとみ歩:
こんばんは。やすとみ歩です。
昨日タスキをもらって今日気づいたんですけど、やすとみあゆ「む」って書いてありましたが、やすとみあゆ「み」なんですけども、これは私は生まれたときは、というか、親につけられた名前、呼び方はやすとみあゆ「む」でした。で、それで、2,3年前にですね、読み方変えました。皆んな割と知らないんですけど、読み方は住民票を単に訂正すれば済むだけで、裁判とかいらないです。でなぜ変えたかというと、「あゆむ」って名前を呼ばれるとドキッてすることに気づいたんです。なんか嫌な感じがするなって言うことに気づいて、それからまあこういう格好をするようになったんで、その男性的な感じのする「あゆむ」という名前よりも「あゆみ」という名前のほうが自分にふさわしいなと思ったので、「あゆみ」という名前に変えました。ありがとうございます。
それであの住民票をですね、単に引っ越しした時に名前の読み方「あゆみ」って変えたらその住民票がそうなるので、それで銀行のキャッシュカードも全部変えられます。
パスポートだけが面倒くさくてまだ残ってるんですけど、なんか外務省にいろいろ説明しないといけないそうなんですが、そのうち変えようと思ってますが、「あゆみ」って名前に変えたらですね、名前呼ばれてもドキッとしなくなりました。なんでドキッてしないのかなと思ったら、たぶんですね。「あゆむ」っていう名前は、母親に叱られる名前だったんです。ということに気がつきました。
それで親とはですね、10何年か前に、私が離婚しようとしたときに猛烈に母親が妨害して、で弟経由でですね、もう「連絡してくんな」と言ったら、それきり連絡してこないんですね、うちの親は。
なので、一応振り切ったつもりでいたんですけれども、名前をですね、呼ばれるたびにドキッてするっていうことを繰り返していたということに気づいて、本当に驚きました。
子どもの虐待っていうのは、私たちが普通に虐待と思ってるようなものだけではありません。
私の両親は、私を立派に育てました。誰よりも立派に育てたと思います。
彼らは必死で私を育てて立派な人間にしようとして、そして私は京都大学に入って、で銀行に住友銀行に三井さんと同じとこに入って、2年半で辞めたんですけど、で大学院に入って博士号取って大学教授になって最後名古屋大学から東京大学の教授になるという、立派なエリートコースを歩んで、要は両親は私を立派に育てたんですが、でもその私は虐待のサバイバーだと思ってます。子どもを守るというのは、私のような人間を作らないっていうことです。
私は例えば京都大学に合格したときも。私が34歳で最初に書いた博士号を取った論文を本にした本で、日経経済図書文化賞という賞を獲りました。そういう賞のですね、受賞の連絡を受けた時も、東大に職を得た時も、これっぽっちも嬉しくなかったんです。いつも私はそういった時にはほっとしていました。例えば、その日経賞っていう賞は大体とっても功成り名遂げた立派な先生が受賞するような賞なんですけれども、私は34歳の時にそれを受賞したんですが、本を書いて出版した時に、「この賞を獲らなかったら死ぬっ」て思ってました。
本当に怖くて、取れなかったらどうなるだろうと思った時に電話かかってきてですね。
受賞したのでほっとしたんですね。
完全におかしいです。
成功する人間というのは、そういう人間です。
成果をあげなければ生きてる値打うちなんかないって、心の底から思ってるから成果を挙げられます。
東大や京大に合格するような勉強を、そんなことのために青春を捧げるのは、まともな人間には無理です。
合格しなかったら死ぬって思ってるから、合格するんです。
そんな風に子どもを育てるのは虐待です。
考えてみてください。
この国はそういう学歴エリートによって指導されています。
私たちエリートは怯えています。
誰かに何かを言われるんじゃないかと思って、怯えています。
特に、自分に力を振るうことの出来る人に叱られるのに怯えています。
五十何歳にもなって、親から縁を切って十何年も経って、東大教授で有名人なのに、「歩」という名前を呼ばれるだけで私は怯えるんです。
そんな人間に社会を指導させたらどうなるか想像してください。
なぜ、彼らは原子力発電所のような,最初から安全に運営することなど不可能なシステムを、安全に運営できると信じられるのか考えてください。
彼らは偉い人に叱られるのが怖いので、そう信じられるんです。
そういう人々に、この国を任せてはいけません。
怯えない人に、任せないと駄目なんです。
自分自身が自分自身であるということを受け入れてる人、自分がおかしいと思ったら、おかしいと思える人、そういう人にしか重要な決定を任せてはいけません。
安倍さんは学歴エリートではないです。
だけど、彼はもっとすごいエリートの家の出身です。
そういう人々も怯えています。
お母さんに叱られるのに怯えています。
おじいさんの夢を実現できないと怒られるから、怯えてるんです。
恐怖に駆られて決定を下す人に社会を任せれば、社会は滅亡に向かいます。
私たちが必要としているのは、怯えない、優しい、強い、そういう心を持った人々です。
それは残念ながら、私はこのれいわ新選組の人々の中にもやはり私はいないと思うんです。
なぜなら、私たちの世代は全員殴られて育っています。
私たちの親たちは、まだ子どもを殴るそういうことが当たり前の世代でした。
私の親は私がアレルギー性鼻炎でぐずぐず言わしていると、「そんな弱虫だと兵隊に行けないぞ」と言って脅しました。
世間が、万博とかやって浮かれている時にですね。
子どもにそんなこと言う親はちょっとどうかしてるんですけども、彼らは昭和9年、10年生まれなので、生まれた時には戦争が始まっていて、子ども時代の全てを戦争の時代に育ちました。
だから、父親は大きくなったら戦争に行って死ぬと信じてたと言っていました。
おそらく母親は、大きくなったら男の子を産んで,戦場に送り出して戦死したらにっこりする、そういう靖国の母のモデルを体に染み込ませて育ったのだと思います。
その恐怖が、私に埋め込まれています。
同じ恐怖がおそらく、日本人の間に埋め込まれています。
戦争は終わってはいません。
私たちは子どもたちを守らないといけません。さもないと、この国の戦争は終わりません。
私たちの心に埋め込まれた恐怖心がこの発展した豊かな社会を生み出したんです。そんな恐怖心によって生み出された豊かさは偽物です。
その豊かさは収奪によってしか成り立ちません。何を収奪しているのか。貧しい国の人々、私たちの社会の中の弱い人々、そして自然環境です。私たちの豊かさはこれらの破壊によってその犠牲によって成り立っています。
そのような暴力性を帯びた豊かさを味わっても美味しくないです。その味は苦いんです。だから私たちは、どんなに立派な家に住もうと、どんな立派な都市に住もうとも、どんなに優れた製品を使おうとも心が空っぽになっています。
私たちが幸福だと感じる時、私たちは幸福です。何かを手に入れても幸福にはなりません。
そして恐ろしいことに怯えに支配された人間は何を手に入れても何をやっても何も感じません。暇つぶしができるだけです。暇つぶしをやめましょう。
自分たちが何を食べているのか感じましょう。美味しいものを食べましょう。気持ちのいい家に住みましょう。楽しいことをやってください。そのための心を取り戻しましょう。
そのためには、私たちは子どもたちに学ばないといけません。子どもを叱るのをやめてください。子どもをしつける権利なんか大人にはありません。
今日私は阿佐ヶ谷で小学生3人とお話をさせていただきました。お腹が空いていてご飯が食べられない子どもがいるのに、学校で何百万円もかけて、ひとり当たり百万も二百万もかけて学校運営してるんだって言ったら「何でそんなことするんだ」と、「まずお腹を空いた子にご飯を食べさせてから学校を作ればいいじゃないか」、小学生は私に言いました。「何でそんなことするの」と聞かれました。「大人が狂ってるからです。」私は答えました。
私たちの狂気を今日断ち切って、子どもたちを守って、本当に楽しい社会を今作りましょう。
ありがとうございました。