木内みどり:
実は望月衣塑子記者。今日も取材にここに来てくださっているようです。しぶとい記者さんです。ここにも、取材にきているようです。ありがとうございます。もうひと方、ゲストスピーカーをお迎えいたします。落語家です。といえば、ここに登場する落語家といえばこの方、立川談四楼さん。
立川談四楼:
こんばんは、というのはちょっと早いですかね。立川談四楼でございます。いつもあの、Twitterで応援してるんですけども、読んでくださってますか? はい。ちょっと歯がゆく思ってたんですけれど、そしたら、運よくお声掛りがありまして、こういう演説という形で参加することになりました。大変、誉(ほまれ)に思っております。私の歴史の1ページです。そして皆さんも歴史に立ち会っているんですよ。自覚してますか? とまあ、固く出ましたけれど、今までの方も、これからの方もまた、皆さんに真剣に聞いていただかなくちゃならないんで、まあブレイクタイムってわけじゃないんですが、肩の力をちょっと抜いてお付き合いください。延々と緊張してるとくたびれます。そしてまた、次のスピーチに備えてください。
ちょっと変わった経験をお話します。私、立川談四楼は参議院議員会館に通う、前座でした。というのは私の師匠の立川談志、8年前に亡くなりましたけれども、昭和46年に、参議院議員全国区で当選して、議員になった経験があるんです。昭和46年、私入門2年目でした。19歳、残念、選挙権がない。で、まあ、ドライバー兼遊説隊員として全国へ、こう遊説に赴いたんですが、その面白い話はたくさんあるんですが、それは置いときまして、談志はその定員50人中の、50番目で当選しました。明け方の発表でした。へろへろになりました、我々は。ベスト10には入ると思ったんですけどね。そうすると新聞記者っての意地悪ですよ。談志師匠ビリでしたね。ペケでしたね、と、こう言ってくるんですね。そこで談志が発した名台詞がございます。「ばかやろう。真打は一番後から出るもんだ。」こう言ったんでございますね。
ということで、参議院議員になって、私はそこへ通う前座となりました。議員会館の一室に部屋をもらうわけですね。そうすると、あれを持ってこいとか、ここにあるものをあそこへ届けろとか、時には稽古してやるって言うんで議員会館にちょくちょくに呼び出されるんです。まあ、変わった経験はしたんですけれど、政治とそこで接点を持ったんですが、障壁がひとつありました。それは、議員会館の受付がめちゃくちゃ厳しかったことです。誰が、誰を、どんな目的で訪ね、何時に入館して、何時に退館したかを書けという用紙が出てくるんです。そこに書くわけですよ。必死に。224号室、松岡克由(まつおかかつよし)。あ、これ談志の本名ね、どうでもいい情報です。と訪ねる私、立川寸志。私、前座の時、寸志っていう名前だったんです。祝儀袋に書くあの寸志です。わずかな金って意味です。ギャラも安かったんです。そして立川寸志て書くと困りますって言うんですね。受付が。ふざけてるとか。いやこれ、談志からもらった大事な芸名なんだ。じゃあ、まあ、いいでしょう。で、目的、その日は稽古してやるから来いって言われてたんで、稽古って書いたんです。すごいでしょ。漢字で書けましたちゃんと。優秀な私です。そしたら、その、これはちょっと本当ではないっていうわけですよ。落語の稽古とは何事かと。じゃあ、何と書けばいいの。まあまあ、当たり障りのないところで、陳情としてください。これが向こうの答えです。ですから書きましたよ。稽古の陳情。稽古が余計だ、と言われてね。そうやって何とか入れたのが参議院会館です。昭和46年から52年まで。そんだけ厳しかったんです。いいですか?
なのに、今の官邸に、政府の中枢に、入館記録がないなんてバカなことがありますか? 皆さん。いいオチでしょ。これを言いたかったんでございます。そのころね、談志は無所属を叫びながら当選したにも関わらず、自民党に入ったんです。自民党の弟子です、私は。当時、佐藤栄作さんが総理でした。その頃、たくさんのカバン持ちとして私は政治家を見ました自民党の。かっこよかったな、中曽根康弘さん。あの人は幹事長になる前だったが、談志が銀座で飲んでて、私がカバン持ちでいたら、バーに颯爽と中曽根康弘、今の大勲位がすーっと入ってきて、これはこれは松岡先生、御門(おかど)を通りましたらこちらで飲んでいらっしゃると伺いましたので、一言ご挨拶に参りましたと、これですよ、皆さん。で、ビールを談志についじゃって、談志も舞い上がっちゃって。中曽根が酌してくれたって。では、ごゆっくりと言って颯爽と去っていく。なんという自民党の懐の深さ。その頃はそう思いました。多様性があり、清濁併せ呑み、金権体質ではありましたが、人材豊富な自民党でございました。で、談志も一期6年、で前座も解放されて、落語家に戻って、その後つつがなく落語家として暮らしてきました。二つ目になり真打になったわけです。ところがガツンときたのが2011年の震災津波原発事故です。この時に、なんてのんびり過ごしてたんだろうと思いました。自分で使ってた電気が東北で作られてたということを私は愚かにも知らなかったんです。全く恥ずかしいことです。そこから勉強して、同時に勉強して参議院議員になったのが太郎さんなんです。
私は未だにくすぶってますけれど、注目して見てました。国会の質疑がんがんやるじゃないですか? 小気味いいですよ。牛歩もやりました。あれね、笑った人がいるけど、ひっぱたいてやりたいですね。私は感激して泣きました。この人はガチで、体を張って、法案が1分でも2分でも遅れるべく、戦っている人だと確信いたしました。ただいかんせんひとりだった。そしたらここへきて、れいわ新選組じゃありませんか。 私はね、ギャグで新聞に書いた事があるんです。汲むべきは、たとえば前川喜平さん。籠池泰典さん。このもりかけコンビが来てくれたらものすごく盛り上がるぜって。今はちょっと恥ずかしく思ってます。この9人。山本さんプラスで9人で10人。こんな素晴らしいメンバーはありません。すべてが当事者なんていうのがありますか? 本当にますます感激して、私はのめり込むばっかりでございます。ぜひ、ここまできたら皆さんの力で押し上げてください。今、れいわを応援せずしていつ応援するんですか、皆さん。太郎さんじゃありませんが、力を貸してくださいというやつです。どうぞごゆるりとこれからまた、皆さんのをじっくり聞いてやってください。大変失礼いたしました。ごきげんよう。さようなら。ジェイオウエイケイ。JOAK
木内みどり:
立川談四楼師匠でした。もう一度拍手を。ありがとうございました。もうすでに5万何千人というフォロアーがいるTwitterで。でもまだの方はどうぞフォローしてください。もう本当に辛口のことを、ずーっとつぶやいていらっしゃいます。ありがたいです。
※最善を尽くしておりますが、なるべく早く皆さまにお届けすることを優先するため、若干の誤字脱字はご了承ください。