
山本太郎:
れいわ新選組山本太郎でございます。朝早くからというか10時ですけれども、足を運んでいただいてありがとうございます。れいわ新選組の次期参議院選挙での東京選挙区、東京選挙区での候補者を発表させていただきます。どのような方かということなんですけれども、元々国会議員です。で、逮捕されてます。刑務所入ってます。で、その中でさまざまな問題に直面し、それを解決するということを第二の人生を歩むということを決めた方ですね。で、法務省などとさまざまな仕組みを変えていくっていうことの先頭に立たれていた。刑務所に入った人たちが社会復帰するのが非常に難しいというところをさまざま解決してきた。数千人に及ぶ人々の人生を支えてきたという方です。ご紹介いたします。れいわ新選組次期参議院議員選挙の東京選挙区の候補者となります。公認候補者です。この方です。よろしくお願いいたします。はい。山本ジョージと申します。
山本ジョージ:
山本です。よろしくお願いいたします。
山本太郎:
まぁ2人、山本が並ぶってことでややこしいので、ジョージさんとお呼びしたいと思います。というわけで、ジョージさんのほうから皆さんにご挨拶をしていただくってことをこれからやっていきたいと思うんですけれども。すいません。いきなり着いてなので、少し時間を取っていただいても結構ですよ。大丈夫ですか?
山本ジョージ:
はい。
山本太郎:
それでは、よろしくお願いいたします。次期参議院議員選挙、れいわ新選組の東京選挙区で公認候補者となりました、山本ジョージでございます。

山本ジョージ:
皆さん、おはようございます。本日はこの出馬会見ご参加をいただきまして本当にありがとうございます。ではこれより先は着座をして話を進めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。改めまして、私は山本ジョージと申します。ただ今、山本代表より紹介のあった通り、参議院東京選挙区、れいわ新選組の候補予定者となった者でございます。皆さんの中でご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが実は私、かつて国会議員として活動していた時期がございまして、議員歴としては東京都議会議員がスタートでございました。今から36年前、1989年の東京都議会議員選挙、東京立川市選挙区ですね。当時、1人区でございましたが私は無所属、そして社会党・社民連推薦ということで出馬をし当選をさせていただきました。ちょうどその年は、その年というか都議会議員選挙の2カ月前に消費税が導入され、そしてその消費税が導入されたことによる市民というか都民の怒り、これを受けて私自身、1人区の立川市で勝ち抜いた、と。そんな思いで、その後の議員活動に臨みまして。その4年後、1993年、都議選2期目の当選をいたしました。それから1996年、これは初めて衆議院で小選挙区が導入された年でございまして。その選挙に東京21区という立川市、昭島市、日野市、この3市からなる選挙区、ここで小選挙区で当選をいたしました。その3年後、1993、1990、違いました。4年後ですね。2000年、2期目の衆議院選、また小選挙区で当選をさせていただいたんですが、選挙前から実は写真週刊誌等で私に対する秘書給与詐取事件というものが報道され、それでも選挙は勝ったんですが、そのあと東京地検特捜部からの呼び出しを受け、結局、取り調べを受け、割とあっという間でしたね。2回目の取り調べで逮捕ということになりましたね。それで同時に私は衆議院を辞職した、と。元々ですね、秘書給与詐取事件というのは政策秘書に支払われる国からの給与、この政策秘書、名義貸しということで登録はしてたんですけど、そのお金を私設秘書の給与および事務所経費に流用したということでそれは詐欺罪に当たると。これはね、後ろ暗いところもありましたし。私はその時点ではっきり「やりました」と、「やってました」ということを認め、議員辞職をしました。で、裁判に臨むわけなんですが。そのときはね、先ほど申し上げましたようにね、史上最年少の26歳で東京都議会議員になり、その後、4回の選挙、選挙のたびに票数を伸ばしての当選と。トップ当選ということで。当選を重ねるごとに周りからも持ち上げられるというかね、ちやほやされるようなことも多くなり、自分自身も何となく自分を疑うことも少なくなって。ま、いわば傲慢になってたんですね。こういう気持ちが結局、この事件を引き起こしたんだということで。この事件自体は刑事司法、刑法の詐欺罪という罪を犯したということも当然なんですが、それよりもね、自分の生き方そのものに対する警鐘かなということで裁判には臨んだ。それで一審の判決に従いますということで最初から東京地裁の裁判に臨んだんですが。一審、懲役1年6月の実刑判決ということで。弁護士はね、控訴をしたんですけど私は控訴を取り下げて入獄をすることにした。
そこで私が収監をされたのが、本格的な服役生活を送ったのが日本最大の初犯者の刑務所である栃木県の黒羽刑務所というところでね。これは3年前にもう廃庁になりましたかね。この黒羽刑務所で非常に驚いたんです。反省させられたんですね。というのは刑務所の中にいる人っていうのはね、私はね、勘違いしてましたよね。私の選挙区の近くに府中刑務所、あるいは医療刑務所なんかもあったんですが。刑務所に入る前っていうのはあの塀を見て感謝をしてましたね。中にいる悪党から私たちが住むこの町をあの塀が守ってくれてんだと、ありがとうと思ってたんですけど。中に入ってみてね、あの塀の位置付けが180度変わった。中にいる人の多くはね、高齢者だったり、あるいはどう考えても知的な障害がある、あるいは精神に障害があるという人たちが数多くいたんですね。そういう人たちのこれまでの人生を聞いてみるとね、実際、加害者となって刑務所に入ってきてるんですが人生のほとんどを被害者として生きてきてる。単に加害行為をやられたということだけではなくて生まれながらに知的障害とかそういうハンディキャップを負い、かつ貧困、そういうことが重なる中で軽微な罪を犯すことによってあの塀の中に冷たい社会、厳しい社会、すぐに差別をされる社会、生産性がないと言って蔑(さげす)まれる社会からある意味、避難をしてきている。あの塀の中に。それを法務省が保護してるというようなことが実態でしたね。ですから私は刑務所から1年2カ月間で仮釈放で塀の外に出ましてね。実は刑務所の中で1年2カ月間、延べ350人くらいの知的な障害のある人、精神に障害のある人、身体に障害のある人、聴覚障害者、視覚障害者、そういった人も含めて多くの障害のある人のいわば世話係みたいなことを刑務作業として与えられたんですが。そんな中でね、本当にやっぱり反省をしました。外に出るのが怖いと言いながら自傷行為を働く受刑者も出所前になったら必ず見られると。それだけこの社会というのが彼らにとって生きづらい世の中なのかと思いましてね。

出所後はひとつはね、内省を深めるという意味で書いた文章が『獄窓記』という名前で出版をされまして。それが新潮ドキュメント賞という文学賞を受賞し、なおかつ、あれは柳葉敏郎さんが主演になってテレビドラマ化もされたんですが。そういったことも含めてね、いろいろ、法務省、あるいは厚生労働省もこの問題、塀の中の、本来だったら福祉的な支援が必要な人たちの問題について、少しずつ目を向けてくれました。そんな中で私は実は私の刑務所仲間が出所前に入ってた東京都内の山奥にある知的障害者の入所更生施設というところで働き出したんですね。2年ちょっとそこで働いたんですが。その働く傍ら、厚生労働省、あるいは法務省に足を運び、塀の中の実態というものを伝える中で厚生労働省もいろいろと動いてくれましてね。厚生労働科学研究という研究班のメンバーにも、研究員にもしてもらって。いろんな提言をして。そんな提言をしながら、実は出所者のみならず障害者、あるいは生活困窮者といった人たちの支援をするためのNPOだとか、あるいは更生保護法人というものをつくって。で、実は刑務所の問題だけじゃなくて、若い人で例えば闇バイトに誘われてしまう人。あるいは闇の組織に売春をいとも簡単に強要され、またそれを受けてしまうような女性の問題。こういう人たちの社会での社会生活をやる上での支援活動なんかも行なってきました。それでですね、一人ひとりの社会での生き方が改善するというかね、社会の中で初めて幸せを掴んでいく、そんな姿を見るだけでも本当に嬉しくてね、そういう活動を続けてたんですが、そうした折ですよ。6年前のれいわ新選組の旗揚げ時に、山本代表から声を掛けていただいた。でも当時はですね、私自身、政治に関わるつもり、あるいは政治の世界に戻るつもりというのは全くなくて、今、申し上げたような活動を地道に続けていくと。秘書給与流用事件というのが起こした人間ですし、15年前に、当時ですから16〜17年くらい前に罪を償ったとは言えね、私は社会の中で地道に生きていこうというような思いもありましてね。山本代表には当時、「陰ながら応援してます。政策は素晴らしい」と、そういうことだけを伝えて失礼ながら面談の依頼にも応じませんでした。そんな中ですね、その後も定期的に本を出したり、あるいはマスコミの皆さんの取材を受けたり、さらには講演活動といった、情報発信活動を通じて、少しずつ行政も動いて目に見えて動いてきてるということでね、それなりに充実感を覚えてたんですが。しかし実は一向に改善してなかったんですね。焼け石に水というか、一人ひとりの人たちを救っていっても次から次に刑務所の中に入ってくる障害者。あるいは認知症を患った高齢者の人。あるいは次から次に闇の組織にリクルートをされる、それこそ被虐待児。貧困状態も含めてね。そういう人たちがどんどんどんどん増えていって改善してるどころか、ますます過酷な状態になっていると。これはね、要するに私が取り組んでる問題というのは単に、何て言うかな、福祉政策の見直しだとか、刑事司法の見直しといった域にとどまるわけではなくて、国のあり方、社会のあり方そのものを変えていかなくては、やっぱりならないんだと、そういう思いを強くしたんですね。

そんな矢先ですよ。今から3年前のコロナ禍。なんですかね、突然ね、全身に苦痛が走りまして、全く動くこともできなくなったんですね。でもコロナの時期でね、近くの総合病院行っても初診者を受け付けないっていうんですね。だからね、2カ月くらいほとんど寝れない夜。私ね、身長180cmあるんですけどね、60kgを切るくらいのね、体重になりましてね。いやこれ大変だと。それで、その近くの町医者さんに紹介をされて大きな病院行ったんですけど。そうしましたらね、山本さん死ぬよと、このままだったら。いろんな検査をしたら、要は前立腺がんが全身に転移し、診察名としては多発性リンパ節転移、多発性骨転移ということで。実際にMRIみたいなその骨シンチって、その機械に入ったら全身に、全身の骨にがんが転移してましてね。医者は、「今後はね、重たい物を持たないで安静しててください」と。重たいものっていうのはどんなもんですかっつったら「ハードカバーの本を持つだけでダメかもしれません」くらいのことを言われましてね。いよいよもう寿命が尽きたかなと思ったんですが、実は幸いにしてね、その後の治療および薬によって、みるみる回復をして、今ではね、体からがんが消えちゃったんです「うん。それでね、でも今でも投薬治療は受けてるんですけどね。薬が効いてるんだと思うんです。それもその高額療養費制度、そんな高額って言っても50万も100万も医者料がかかってるわけじゃないんですけど、それ以内ですけど、でも、それは厳しいですよ。私なんかにとってはね。でもその高額医療費制度によってなんとか投薬治療も受け続けてくるということが可能になっていると。ただしね、やっぱこの制度を受ける者としてやっぱりもちろん、感謝の気持ちと同時にね、何となくやっぱ申し訳なさみたいなの感じてたんですよね。税金で医療費上乗せ分は払ってもらう、申し訳ないなって、これで命を繋いでもらってるんだと思ってた。それがね、今年に入りね、唐突に提案をされた高額療養費の負担増の問題ですよ。いや、まるでね、そりゃね、刃物を突きつけられたような恐怖を覚えましたね。いや、私もね、これはもう投薬治療できなくなるなと。結局、ね、政治というのはこうして有無も言わせずね、人の生きる権利を縮小をさせたり、あるいは人によって剥奪したりしてるんだなと思いました。なんかね、私としてはね、初めにね、思ったのがね、俺ってもう惨めだなと思ってた。ところがね、その後、ふつふつと怒りが込み上げてきてね。自分のことはともかくとして社会的弱者と呼ばれる人たちはみんないつもこうやってね、一方的に酷い目、こういう目に遭わされてるんだなと。自己責任という言葉のもとにね、なかなか反対の声も上げられないと。こういうことの繰り返しだと。
そんな中でですよ、実はまたね、今年、山本代表に声を掛けていただいたんですね。ズバリ、「れいわから選挙に出ないか」という話で、「はい」と言いたかったんですけど、しばらく待ってくださいと。いやあ、もうね、私の家族は懲り懲りなんですよ、選挙は。東京地検特捜部がガサ入れに入るとね、家族総出で立会いしなきゃならなかったりね、写真週刊誌に追っかけまわされたりとか。なんかね、それがトラウマみたいに残ってて、しばらくね、返事をもらえなかったんですが。ひとつはね、やっぱり私の健康問題もあった。でも今の主治医に聞いたら、「私は太鼓判を押します。今の山本さんだったら選挙、大丈夫ですよ。政治活動もやれると思います」ということを力強く宣言をしていただきましてね。そこで山本代表に「やります」という返事をしたわけですね。これね、そのとき思い浮かんだのが「生きているだけで価値のある社会」ということですよ。これはよくね、山本代表が口にされる言葉でね、私自身も全く同感で。政治というのはやはりそういう社会をつくっていかなくてはならないと常々考えていた。それを実現するためには何をすべきか。その選択は簡単でした。自分に残された命というのは決して長くはないと思いますね。10年くらいじゃないですかね。ここはやはりね、社会を変えるために命がけで頑張ろうとそう思いました。いろんな人の顔が浮かんできました。刑務所に、本当にね、後悔をして、闇バイトに誘われて何でこんなことで刑務所に入ることになったんだろうか。訳わからないうちにいろんな悪条件が重なって刑務所に入ってきてる。しかし出所後、なかなか厳しい社会が待っている。そういう人だけじゃなくてハンディキャップを負った人とか、あるいは本当にね、ホームレス状態になって水しか飲まずにね、結局、餓死をしてしまうと。
あるいは日本の殺人事件っていうのはね、実は、実はね、私、いろいろ本を書くんでいろいろ調査をした。今の日本というのは、殺人事件の被害者の実は7人に1人が要介護者。介護を受ける60歳以上の人、または障害者なんですよ。そしてその人を殺めた、手を下したという人は介護・介助に疲れた、そういう人たちが最後まで最後まで頑張ったんですけど、もうやっぱり耐えられないということで身内を殺めてしまうと。その犯人と話したことありますけど。「いや、頑張った」と、周りの人には笑顔で「頑張ってるよ」と言ってたと、そう言うんですけどね。笑顔向けなくていいじゃないですか。苦しかったら「苦しい」って言えばいいじゃないですか。そういう社会じゃないんですよ。福祉は支えてくれないんですよ。貧困ですよ。困窮者がどんどんどんどん、さらに暮らしづらくなってる、この世の中。まぁぜひ変えたいと思います。この、何と言うかな、貧困大国ですよ。あるいは弱者排斥大国、日本。これをね、ぜひ変えようと。そういう思いで、このたび東京選挙区で立候補するという決意を固めた次第です。死ぬ気でね、挑戦をして、絶対にこの東京、中央区でれいわの票を獲得してみせます。ということで少し長くなりましたが、私が出馬する決意をするに至った経緯、およびその思いの一端を述べさせていただきました。どうもご清聴ありがとうございました。
山本太郎:
ありがとうございます。山本ジョージ本人からの思いといいますか、これまでの自分の人生であったりとか、そしてこれからに向けての言葉というものをいただきました。ま、まさに刑務所っていうのは社会の縮図だと。刑務所の中にあるもの、その問題っていうのは事実、一般社会においても問題であり、もうまるで社会の映し鏡というところが刑務所で。で、その刑務所という場所は最後のセーフティーネットにもなっていると。福祉という非常に脆弱なもので、そこで救われない人たちが刑務所という中で暮らしを続けているっていうところから、どうやって社会復帰をしていきますか?ということを出所後ですね、そのお手伝いを様々してきたという方が山本ジョージさんでございます。例えばですけれども、出所後ということでいただいたプロフィール、どういうことをやってきたかって、ここですね。山本さん、こっち見たほうが早いかもしんないな。山本さん言ったらあかん。ジョージさんって言わんと、ややこしい。ここ押していったら変わりますから。はい。すいません。

2004年から21年間、受刑者の社会復帰支援活動をされてきた。社会復帰、生活支援をした方々は2000人以上に及ぶと。そのあとはもう皆さんご存じの通り、作家としてもですね、さまざまな著書があると。ドキュメント賞、新潮ドキュメント賞なども受賞されたりとかして。で、2006年に出版された『累犯障害者』って本があったんですけど、その本を私が初めての参議院議員の任期中にちょっと読むことがあって、それで感銘を受けたと。で、この方にぜひレクなどをしていただきたいなっていう思いもあったんですけど、いつか自分が旗揚げするときにはこういう方にも入っていただきたいって思いが当時から芽生えてました。実際に旗揚げしたときにもお声掛けというか、直接的に「出ませんか?」ってことは言ってはいないんですけれど。おそらく敏感にそういうことだろうってことを(笑)感じられたと思うんですね。で、そのときにはお会いすることが叶わなかったってことです。ま、とにかくですね、刑務所の中ということで障害者、高齢者の問題を社会に提起し続けるということをやっていきながら、実務的にも制度を変え続けてきた人なんです。
2004年からはですね、「触法障害者」についての勉強会、これは福祉関係者だったり司法関係者に呼びかけて発足させたりとか。一方で八王子市内の知的障害者入所更生施設にて支援スタッフとして実際に働いてみて。で、作家活動をしながら全国の福祉施設、矯正施設を訪ねて調査研究なども行なってきたと。その後ですね、2006年以降は「罪を犯した障害者の地域生活支援に関する研究」という研究班とか立ち上げたりとか。日本社会福祉士会の「リーガル・ソーシャルワーク研究委員会」を立ち上げ、厚生労働省、法務省など行政機関にも政策提言を繰り返すと。それまでそういうことを行なってきた結果、どういうことが得られてきましたか?ってことなんですけれども。成果としては矯正施設と福祉をつなぐコーディネート機関「地域生活定着支援センター」を、厚生労働省予算で各都道府県に最低1カ所設置させるってことも動かしてきた。障害のある受刑者が矯正施設内でも障害者手帳を取得できるよう、交付要件を緩和させると。障害があるという状態で刑務所に入ってるんだけれども、その刑務所に入ってる状態で元々その手帳を持ってないって方も大勢いらっしゃるんですか?
山本ジョージ:
最初にですね、実は法務省のほうからこの問題を改善したいというんで、私が2006年に依頼をしたのは本当はしっかり調査、全部調べてほしかったんですけど超過剰収容の時期でね。サンプルを取っていろいろ調査をしたいと言うんで、全国の刑務所、主にね、府中刑務所をはじめ大規模施設ですね、そこで刑務所に勤務する医者、精神科医および心理機関ですね。当時、臨床心理士の資格を持った法務省職員が、知的障害があると、どう考えても知的障害があるという人たちをピックアップして、いろんな調査をしてもらった。最初に驚いたのは410人をピックアップしてもらったんですけど、そのうち福祉と繋がっていた、要するに療育手帳という手帳を取得していたという人は20名ちょっと。6%に過ぎなかったんです。94%の人は生まれながらに知的障害があるにもかかわらず、日本の福祉はそうなんですよ。日本の知的障害者福祉はヨーロッパ、OECDの中で最低限。要は高齢者福祉と同じように身体的な障害がある知的障害者にしか支援メニューが用意されてない。したがって軽度の知的障害者あるいは発達障害という人たちはなかなか福祉に行かない。手帳を取ったとしてもその支援メニューがない。変にラベリングだけになってしまう。だからたぶん自立してるように一見みえてもね、福祉等の世話にならず、実は非常に孤立して。そして、もしかして排除をされてるかもしれない。その行き着く先が刑務所。あるいは刑務所じゃなかったらたぶん地域の中でゴミ屋敷をつくったりね、騒音をまいたりね、してる。でも手帳持ってないから障害者じゃない。単にだらしない人とかね、根性ひん曲がった人みたいなことを思われて生きづらさを抱えてる。これはね、たぶん日本というのは世界で、OECDの国々の中で一番、知的障害者が少ないことになってんですよ。だから予算も非常に少ない。スウェーデンなんかの対GDP換算でいうと10分の1以下くらいですよ。だから知的障害者の数が本来だったら、プラス手帳を持ってない障害のある人。だから障害者とは思われてなくて地域の中に生きてる人っていうのはたぶん250万〜300万以上いるというのがこの国の実態です。そういう人は生きづらさを抱えているということですね。
山本太郎:
ありがとうございます。刑務所内で障害を持たれた方っていうのはたくさんいらっしゃる。で、その中でもそもそも手帳を持っていたという人は6%に過ぎないと。どれくらいこの国の福祉の網の目というものが粗いのかということの表れだとも思います。障害のある受刑者が矯正施設内でも障害者手帳を取得できるよう交付要件を緩和させたり。他にも出所者を引き受けた福祉事業者への支援費加算制度を導入させたり。すべての矯正施設に最低1名の福祉専門職を配置させたり。他にも法務省管轄の更生保護施設、出所後に行き場のない受刑者を受け入れる施設に法務省予算でソーシャルワーカーを配置させたり。検察庁に社会福祉アドバイザーを採用させたり。障害者が被疑者となった時点で福祉が介入する「入口支援」を開始させたり。まぁ申し訳ないんですけど、特に東京選挙区というところにおいては、例えば若さが売りであったりとか。で、事実上、見て呉れが売りだったりとか。それを悪いとは言いません。さまざまなアプローチがあっていいと思うんですけれども。私たちれいわ新選組としては、やはりここ東京ということに限ってはまずは即戦力。これまで変えてきたということを重視して、一番世間から見放されそしてないものとされる、ある意味でバリアの中に隠されているような施設の中の改善を大々的にやられてこられた、コツコツとやられてきたという方を、やっぱり私たちは議員にしたいという思いで東京選挙区は山本ジョージさんにお願いをしたというところでございます。まぁ冒頭、私たちからの説明がちょっと長くなってしまいましたけれども、次は記者の皆さんからのご質問を受け付ける形にしましょうか。ご質問ある方は手を挙げてください。なければ終了です。

記者:
読売新聞と申します。先ほど資料の中でこれまで支援した方が2000人という風にあったんですけど、それはいろいろこう実績が確か表示されてますけど、その中での合計が2000人ということ? それとも何か団体とか何かを通してというような?
山本ジョージ:
個人です。団体だと例えばNPOだとかそういう職員が携わった人も含めればもっといますけど。個人的に社会復帰のお手伝いをする。あるいはこれはね、出所者だけでなくて、刑務所に行きそうな虞犯(ぐはん)と言われるような人たちを刑務所に行かせない、そういう支援なんかも含めて、付き合いというのは濃淡ありますけどね、計2000名を超えているということです。はい。
記者:
あと細かいところなんですけど、お名前、今回カタカナのジョージさんっていう風に表示されてますけれども、著書のお名前とか普段漢字だったかと思うんですけれども、この辺りは?
山本ジョージ:
著書は漢字で本名でやってます。で、昔、4期選挙やった時はひらがなの「じょうじ」でした。でもあの頃、わかったつもりになってね、まぁ偉そうにやってたなというような反省もありまして、それをリセットするというような思いもあり、カタカナ「ジョージ」にしました。はい。
記者:
カタカナの「ジョージ」で、例えば本を出版されたりとかそういうことされてる?
山本ジョージ:
は、ないです。
記者:
は、ない。わかりました。
山本太郎:
何も珍しい話じゃないっすよね。選挙の時に難しい漢字の場合には名前をひらがなに開くとだったりとかカタカナにするっていうのは当たり前の話なので。はい。
記者:
芸名とかでいいますか、そういう芸名じゃないけど、そういう名前で活動されてるのかなと思いました。
山本ジョージ:
違います。
山本太郎:
あの、漢字がカタカナになりました、というだけです。さぁ、他いかがでしょうか。
記者:
朝日新聞です。参院選に向けて今までご自身が関わってきた福祉の分野以外で何か訴えていきたいことだったりとか政策はありますか。
山本ジョージ:
福祉はいろいろありますし、もうひとつはね、最近の大川原化工機の冤罪事件ありますよね。私も刑事司法の一連の流れ、当事者として関わってきましたけど。やっぱこれも世界中の中で非常に密室の中で行われている刑事司法ですよ。まずは人質司法と言われる勾留制度ですね。これ、おかしいですよね。警察が決めたら99%ね、勾留決定し、その後ね、保釈もなかなか認められないという、こういう手法をぜひ変えていきたいと思っております。その他いろいろ矯正の問題とか多数あります。たぶんそれを言い出したら、50分じゃ済まないなっていう感じですね。はい。ですから刑事司法の問題も次の福祉、刑事司法、その他ですね。あとはれいわ新選組のマニフェストとダブるところがありますから、これはマニフェストができた段階でしっかりと政策として自分自身の政策としてまとめていきたいと思っております。

山本太郎:
以前お話しした時にれいわ新選組の政策の中でどれか推せるものありますか?的な会話をしたことあるんですけれども、奨学金、奨学金をチャラにするという部分、これに関して、ジョージさんのほうから、「これはいい」というお話をいただいたんですけど、何かそこには意味があるんですか?
山本ジョージ:
あのですね、3年前、検査を受けた後ですね、体の具合が悪くなって。そこで妻と子どもと一緒にステージ4のがんの告知を医者から受けたんですが。その次の週に息子は大学を辞めましたね。というのは、奨学金もらえばいいじゃない?と。ただ私もね、もう生きていけるかどうかわからないんで、無責任にそれを強くは言えなかった。自分の判断で、半年後に、あぁ、1週間後に大学に退学届を出してきましたね。でもね、本当は奨学金を受けてほしかった。で、特例というものに対して、これはね、実際に払ってる人と比べて不公平じゃないかというような意見ありますけど、人生こんなに不公平なのかということをこれまでの活動の中で本当に痛感してきたんですよ。親ガチャという言葉ありますけど、生まれながらに貧困な家庭の中に生まれた、ね、それが運良く、それは高給取り、高給を取れるような会社に就職した人はいいかもしれないけど、やっぱり就職氷河期だとか、あるいは何らかの、他の家族、私のところのような家族が思いもよらぬような状況になって貧困になってしまうというような。その状況を、立たされた状況自体が不公平なんでね。そこは一回、ちゃんとね、逆に公平に戻すのが、この特例制度(奨学金徳政令)だと思っております。
山本太郎:
ありがとうございます。ご自身の経験と社会を見たときに政策の失敗、ある意味で教育の負担を個人やその家族にのしかかるような方法ではなくて、どの家に生まれようともそのような形で教育を受ける権利があるというような状況をおそらく望まれているんだろうってことだと思います。いかがでしょうか。他は。ご質問あれば。
記者:
時事通信と申します。ジョージさんのこれまでの所属政党の遍歴といいますか、そのあたりについて伺いたいんですけれども。主に国会議員としては旧民主党に所属されていたとは存じ上げているんですけれども。確かそのあと、除名処分をそういったことがあったかなと。
山本ジョージ:
そうです。除名処分を受けた政党はもう無くなったようですから回復はできないみたいですけどね。まぁいいんですけど。そうだ、一番最初に菅直人の秘書をやったときに、社民連という政党にちょこっと所属したことがあります。ただし、都議選に出るにあたって無所属になって、それは離党し。その後、民主党結党と同時に結党メンバーとして参加をしましたから。辞表じゃなくて、辞表は預かりになって除名でしたね。そこまで民主党という政党に所属しておりました。
山本太郎:
他いかがでしょうか。
記者:
France10の及川と申します。ジョージさんの文章は新潮45でよく拝読していて感銘を受けておりましたけれども。25年ぶりに選挙ということですけども、戦い方というか、四半世紀経ってるわけですけども、どういうような訴え、選挙戦をしていくのか伺えればと思います。
山本ジョージ:
はい。それも愚直に今、言ったようなことを正面から訴えるということで。逆に今ね、他の政党を見てると、枝野氏が言ったように「減税ポピュリズムは別の党に」ってそれは、だけじゃなくて、今、言われた立憲民主党の議員だけじゃなくて他の政党もみんなポピュリズムじゃないですか。選挙前になるとね、減税減税なんてにわかに言い出すと。やっぱそういう政治ってやめにしようよ。ね。ちゃんと自分の思ってること、票を欲しさだけじゃなくて、やっぱりこの間取り組んできたことから感じる、今の日本に対する思い、あるいはどういう政策をやりたいかということを正面から愚直に訴えていきたいと思っておりますが。ただね、感心しましたね。この間、色々、れいわの皆さんとね、話をしている中で、やっぱ僕らってすごい古い選挙をやってたと思う。ガチガチで。やっぱりずっと私は小選挙区で当選する自信があったっていうのは、それはね、妻は何万軒も個別訪問、ノルマで課せられてやってましたよ。ね。ミニ集会を何回もこなすとかね。そういうね、ドブ板みたいなことをやってましたけど。たぶんもしかしてボランティアの皆さんはドブ板をやられているのかもしれないですね。そういう、まさにお金のかからない選挙、それを地で行ってるというか。初めてなのかな、こういう政党ってね。うん。やっぱりだからその辺はちょっと僕は今後、選挙戦に入る中で実は楽しみにしてるんです。たぶんこれまでとそういう意味では違う選挙になるなと。ただ、自分自身は愚直に訴えるのみだと思っております。
山本太郎:
他いかがでしょうか。
記者:
毎日新聞です。よろしくお願いします。日本を変えていきたいという風に先ほど訴えていたんですけれども、具体的にはどのような政策でしたりとかをやっていきたいと思っておりますでしょうか。
山本ジョージ:
やっぱりどんどんどんどん、なんて言うかな、富の格差が開いていってる。そんな中でね、ひとつは、だからそこは大事だと思うんですよ。例えば他の政党が消費税減税を謳っている。ね。廃止までは言ってないのかもしれないけど。じゃあね、その先、何を目指すのかっていうところがたぶんないんですよ。ですから、私は民主党という政党にいて、やっぱりね、どっかで感じてたというのは立脚するところが当時の政党はみんな生産点に目を向けてた。資本側。あるいは労働側といっても実は労働組合というわけではなくて、労働組合の幹部に目を向けてた。結局ね、そういう既得権益者だけが潤ってしまうような政治。その中であたかも臭い物には蓋みたいな感じでね、貧困層を隠していった。そういう社会をね、ぜひ正していきたいし、そのためのね、セーフティーネットをきちんと張っていきたい、そういう社会ですね。だからそれと本当に生きれる社会ですよ、死ななくていい社会ですよ。みんなでそこは支え合いましょうよ。ね。その何と言うか、あたかもね、いくらお金を稼いだのが偉いみたいなね、そういうプライオリティだけで物を考えるような社会はやめにしましょうと。じゃなくても、それぞれがね、たぶん仕事だけじゃなくて役に立つところはたくさんあります。ね。そういうのも見出していけるような社会にしたいと思っております。

山本太郎:
さぁ、他いかがでしょうか。大丈夫ですか。あ、はい。
記者:
よろしくお願いします。日経新聞と申します。山本ジョージさんが訴えてらっしゃる福祉であったりとか、地方の改革というのは全国的に影響があるかと思いますけれども。今回、東京選挙区から立候補するにあたって、それらの政策を東京から訴えることについての意義について一言お願いできますか。
山本ジョージ:
例えばね、今、都議選の最中だからこれは訴えたいんですけど。東京というのはある意味、非常に排他的なところですね。さっき言った、例えば障害者の数って、障害者手帳っていうのは地方自治体が発行するわけですね、審査をして。東京都って、本当は日本全国平均でいうとその全人口の9%が知的障害者と認定をされてる。欧米では3%なんですけどね、全人口のね。スウェーデンになると5%くらいになるんですけど。0.9%。なんだけど東京は0.6%くらいなんですよ。で、要は非常に本当はそういう生きづらさを抱える、生きる力が弱い人がいるのを、たぶんわかんないわけないんですけど。見て見ぬふりをしている行政。ね。それでもって全然ね、大規模開発だか、そういうところにはジャブジャブジャブジャブお金を注ぎ込んでしまう。ですから地域生活定着支援センターというのは厚生労働省が提案をし、厚生労働省の予算で設置をしたんですが。実は福祉ですから、地方自治体が運営主体になってほしいということで各都道府県に委託された事業になってるんですね。私、何回も東京都に話に行きましたけど、しらっとしてましたよ。年越し派遣村の最大になるんじゃないですか?って。匿名性の高い、この東京という都市部に日本全国から犯罪を犯した知的障害者、精神障害者。それはまるでモンスターみたいな言い方をしてましたよね。が、うじょうじょやってくるんじゃないですかって。一番、オープンは。最後は大阪だったかな。東京も非常に遅かった、後ろ向きでしたね。ただ、非常に冷たい都政だと思います。ですからそこで戦いたいとも思いましたね。はい。
山本太郎:
あの、まぁもちろん、山本ジョージさんの激動の人生ってことを考えるならば、これまで取り組んできたテーマというのは刑務所の中ということですけれども。これはやっぱり一般社会と映し鏡だってことですね。だから刑務所に特化したことをやりたくて手を挙げたわけではないと。立候補するわけじゃないんですよ。やはりこの社会の縮図と言われる刑務所というところから、やっぱり社会の問題点っていうものをやっぱり解決していくために、元をどう正していくかっていう部分であったり、どう変えていくかってことにチャレンジしていくということだと思います。それはやっぱりしっかりとした厚いセーフティーネットをつくっていきながら、誰もが不安がなく生きれるっていうことを、やっぱり目指していくことなんだろうと。だって今の多くの人々は将来に不安しかないじゃないですか。こんなむちゃくちゃな国ないですよ、はっきり言ったら、先進国の中で。そう考えたときにやっぱりそういったものをしっかりとこれからつくっていこうということを、すごく大きなビジョン持って取り組まれていることだという風に思います。すいません。さぁ、他はいかがでしょうか。大丈夫ですか? 刑務所の飯は臭いと聞いたけど本当に臭いのか?とかそういう質問でもいいんですよ。どうなんですか?
山本ジョージ:
実はですね、たまにイベントなんかのときに銀シャリ、要は白米が出るんですけど。白米はね、すごく古いお米でね、麦シャリのほうがうまいですよ。麦飯ですね、はい。普段の麦飯のほうが美味しいくらいです。

山本太郎:
なるほど。一番のごちそう、何だったんですか?
山本ジョージ:
いや、あのね、それぞれの刑務所によって名物があって。私がいたときの黒羽刑務所っつうのは茹であずきですよ、茹であずき。要はぜんざいに餅が入ってないってやつ。要はどうしても甘いもんに飢えちゃうんですね。ですからあれにね、コッペパンをつけて食べるっつうのがね、楽しみでね。でもね、かみさんが面会に来ると言うんですよ。ここの刑務所のご飯ってやっぱ臭い飯って言うから口に合わないんじゃない?って。でも僕は本当ここはうまいよって。でも1カ月に一回くらい面会に来るたびに僕は痩せてる。でも健康な痩せ方なんですよ、1カ月に1kg〜2kgくらいですからね。ですからその茹であずきがね、本当に好きだった。だからね、僕が刑務所から出る前にね、ちゃんとね、あれ献立作ってたんですね、かみさんはね。1週間、2週間、1カ月、毎日何を食べさせたほうがいいか。最初はナマモノは一切なし。で、それからね、ただし1週間に1回、必ずぜんざいがあってね。ところがね、元々、私、ぜんざい嫌いだったんですよ。で、やっぱ刑務所から出たらやっぱりあんまり食べたくないっていうんでまだ食べたことないです(笑)。
山本太郎:
なるほど。入院した後にコンビニの、なんだ、サンドイッチ食べたら涙流すみたいな、そういう話ですね(笑)。
山本ジョージ:
そうそうそう。本当、ただやっぱりね、刑務所の中っていうのは本当は得難い体験ですよ。それはある意味、法律によって人権を制限させられ、一挙手一投足を監視をされ、言わば人権のない世界ですよ。ですから自由もない。だからいくらね、刑務所の中で3食それなりにうまいものを食べても、やっぱ外の自由な世界のもんで、質素なものでもいい、食べたらどれだけ美味しいか。いや、そういう経験を有してるっていうのは人生にとってプラスだなと思った。っていうのはやっぱ社会の中で生きてりゃね、辛いことあります。辛いことありますけど、いわゆる人間としての存在を否定されたような、あの経験と比べたら、まぁまだマシだって思える経験ですね。これはプラスになってますね、今も。
山本太郎:
ありがとうございます。25年前の、冒頭にね、元議員をやってたけれども逮捕歴があり、そして刑務所にも入ったことがあるということを言いましたけれども、秘書給与詐取事件ということになるんですけれど。これは政策秘書というポジション、ここを空にしておいて名義だけ借りてくると。名前貸し、名義貸しの世界で。で、そこで浮いたお金を別の事務所スタッフの増強に充てるっていうのは、これ申し訳ないんですけど永田町では普通にやってたことなんですね、これまで。ずっと。ずっと普通にあったことなんですよ。普通にやってたこと。で、ある意味で慣習とも言えるような部分でもあったと。すべてではないけれどもそういうことをやってる人たちは多かったってことです。で、おそらく山本さんはそこ狙われたんだろうなって。当然、政治って権力闘争ですから。ある意味で追い落としたいライバルだったりってことがあるならば、そういうところを狙われて、結局、逮捕されるに至るということになったんですね。潰しに来られたんだろうってことだと思います。
私の世代になってから、私が国会に行ってからも政策秘書を誰にするかっていう面接で何人か直接お会いしたんですけど。2名くらいの方は給料の一部を個人的に寄附しましょうかとか、ボーナス分を寄附しましょうかってことで秘書になりたいってことをアピールしてきた人がいるんですよね。だから昔とは形を変えた形で今もそういうことが続いている可能性はあると思います。ま、何が言いたいか?ってことですけど、山本さん自身は何ひとつ、他のみんなもやってるじゃないかとか、そういう言い訳一切せずに、逆に言えば自分自身が素直に反省して実刑を受けるということで罪を償った方です。そこから第二の人生が幕を開いたという中でのさまざまな不条理というものに対して、これはその刑期を終えてからも人生をかけて取り組んできた人。まさに実務家であり、そして私は改革者だと思っています。そのような方をこの東京から私は確実に国会に送り込むことが必要だと。そしてこれまでの政治のさまざまな汚いことだったりとか、庶民の味方みたいな顔してる政党での中の裏の話とかもたくさんあると思うので。選挙戦を通じてですね、いろんな嫌な話、もう耳をふさぎたくなるような、民主党関係者がみたいな、そういう話も聞けたらいいなって個人的には期待しております。というわけで、山本ジョージでございます。ありがとうございます。山本さん、大丈夫ですか? 最後に言い残したことないですか?
山本ジョージ:
最近、よくね、本当死にたーいって相談を受けたりするんですよ。本当に、この白い手で。その手でっていうのは白い細い手でね、障害のある子どもの首に手を回したんだって。いやぁ、そんなね、いや。何でっていうと障害があっても別に福祉の世話になれない、要は発達障害療育の人でね。それを診断をしたが故に保育園が全部入園を断ってきた。小学校まで。保育園行けなくなった。その後もう全然まともな教育なんか受けられないんじゃないかって言ってね。いやぁ、こういうね、日本の社会って一体どうなのかって。本当にね、いろんな支援をする中で泣いたり怒ったり一緒にね、そういうことをね、ぜひね、今度はね、まともな感覚で政治に取り組んでいきたいと考えてますので、よろしくお願いいたします。
山本太郎:
ありがとうございます。というわけで会見は以上となりますけれども。では一旦終わらせていただきます。ありがとうございます。東京選挙区、れいわ新選組の公認候補予定者でございます。山本ジョージ、ジョージ山本でございました。ありがとうございます。

※この文字起こしは文字起こしチームのボランティアのご協力のもと公開しました。